続・自己満足テキスト師


celaeno_w さんが残してくださったコメントが印象に残ったので、
それを少し取り上げさせてもらおうと思います。


『個人的に思ったのは、「原稿用紙を埋めることが出来た人」の方が、
多分つまらないブログを造っている確率が高いって事かな。
文章として成立していないことに気付けないで書けちゃうのは、
当時も羨ましいなぁと思ったから。
自己満足に違いはないですが。』


私はこのコメントを読ませてもらって、思い当たる人がいました。
学部時代の研究室で一緒だった方なのですが、
ある日のミーティング(ゼミみたいなもんです)後に



「何かについて書けっていってくれれば、中身がなくていいのならいくらでも書けるよ。
それこそ、ノルマを埋めるだけの文章だったら、いくらでも書ける」


そう言っていたことがありました。
私はそれがいまひとつどういうことなのか分からなかったのですが、
しばらくして、その方が書いた研究の中間報告を見たとき、
それがどういうことだったのか、ようやく理解しました。


この方、研究の進みがかんばしくなかったために得られた成果に限りがありました。
ゆえに報告することがわずかだったので、
報告書としての体裁を整えるため、
研究とは直接関係のないトピックスで文書の大半を埋めてきたのです。


読み手が一番知りたいことを可能な限り先延ばしにして、
なおかつ小出しにしていくというのは、
ある意味テクニックのいることだと思います。
それこそ、推理モノの極意はそのへんにあると言っても過言ではないはずです。


しかし、それは報告書の作成において用いられるべき技法ではありません。
その方は、指導教授にこういわれました。



「お前さんがいかに苦悩してこの研究を進めてきたかは、
これを読めば分かるけど、報告書というのは小説じゃないんだよ。
結局”あんまり進んでいません”ということしか書かれてないのに
長い文章を読まさされたんじゃ、こっちはくたびれちゃうよ。
へたすると”あんまり進んでいません”ということすら伝わらない可能性だって出て来る。


進み具合が思わしくないのなら、それでもかまわないから、
提示できるだけの成果をはじめから提示しなさい。
その上で、何が悪かったのかを考えるのが報告書の使い道なんだからね」


私はこのときのやり取りが強く印象に残ったのですが、
それは、そのとき私も感じた、読み終わった後の徒労感が、
その報告書のどこにあったか、教授が適切に指摘したからでした。


celaeno_wさんのコメントを読んだときも、
これと似たような表現の「うまさ」を感じました。


「文章として成立していないことに気付けないで書けちゃうのは、
当時も羨ましいなぁと思ったから」


多分、これができる人というのは
前述した人のように、
ノルマを埋めるだけの文章が作成できただけで
”文章として成立している”と考えてしまう人なんじゃないかと思うのです。


自然に考えれば、言いたいことがたくさんあって、
結果として文章は長くなってしまうのでしょうが、
目的が、例えば「blogとして見栄えがする文章量をこしらえよう」などと考えた日には
言いたいことが無くても長い文章が出来上がってしまうことでしょう。
それこそ報告書としての見栄えがする枚数でまとめた人のように。


・・・だとすれば同じように教授の言葉は
blogにもいえることなんじゃないでしょうか。



「お前さんがいかに苦悩してこの長いblogを書いたかは、
これを読めば分かるけど、blogというのは小説じゃないんだよ。
結局たいしたことは書かれてないのに
長い文章を読まさされたんじゃ、こっちはくたびれちゃうよ。
へたするとたいしたことしは書かれていないということすら伝わらない可能性だって出て来る。」


・・・「チラシの裏にでも書いてろ、な!?」というアスキーアートを思い出しました(笑)