先輩風


先日初めて海外旅行へ行ってきました.
無事に帰国することができた私は,海外旅行へでかける前と海外旅行へでかけた後で,自分は何か変わったかなぁと,色々見直してみたのですが,これといった変化を見つけることが出来ませんでした.
3泊4日の旅行で程度で変わるほうがおかしいと考えることも出来ますし,自分では気づいていないだけで多少は何か変わったとか,ありうるのですが,なんにせよ,私自身が強く実感できるようなことはなかったわけです.


私としては,もっと分かりやすい変化があるのではないかと期待していた部分がありました.具体的にいうなら「もっと偉そうに振舞えるようになるかなぁ」と考えていたのです.
普通に考えるなら「そんな変化なら無いほうがいい」と考えるべきなのでしょうが,かつて,生まれてこのかた日本を出たことのない私に対して,既に海外へ出たことのある人間が,得意げに話をしてくるというシチュエーションに,何度かなったことがある身としては,一度でも海外へ出たならば,さぞ得意げな気持ちになるであろうと思っていたので,実に拍子抜けです.


それだけに,かつて得意げな態度で私に対して海外渡航経験を語ってきた輩は,どうしてそんな態度を取ることが出来たのかを改めて問いただしてみたい思いにとらわれます.もしかすると,今度はそんな態度を取られずに話をしてもらえることが,海外へ行く前と行った後での変化で最も大きなものかもしれません.
ただ,それだと私の変化ではなくて,相手の変化だということになるんですが.


たまたま,そんなことを友人との話題にだしてみたところ,案の定あきれた顔でこういわれました.

『深く考えすぎ.海外旅行がどうこうとかじゃなくて,
単に自分の経験を自慢したいかそうでないかの違いだけだよ』

・・・もっともな話ですね.
強いて言うなら,かつて私がその経験を少なからず羨ましいと思ってしまったから,印象に残っただけ.
そして私は同じ経験をしても,特に誰かに自慢しようと思わなかった,ということですね.


旅行自体はとても充実していたので,写真や土産の品を片手に話をすることは全くやぶさかじゃないですし,話した相手も純粋に楽しんでくれていると思います.では,かつて私が感じた,あのなんともいえない「偉そうな態度」はなんだったのでしょう.
友人はこう言います.

「イタい話ではあるよな.
”海外いったことない人間には理解できないよ,フフン”
・・・みたいな会話が続くとキツイ.
ボクすごいでしょってのをアピールしたいのは分かる.
ただまあ,その人にとっては海外旅行が大きな出来事だったってこと.
そういう経験ができてよかったね,と認めてあげようよ.」

大人だなぁ.

更新フットワークをめぐる葛藤


研究室の後輩に・・・


『紅髪さんの話って,普段通り話せば面白いのに
どうしてプレゼンとかでかしこまってつまらなくするんですか?』


・・・というニュアンスのことを
何度か言われたことがあるんですが,
(しかも同じ人に言われたのではない)
同じ理屈が,私のblogにも適用できるのではないかと思いつきました.


そこで下書きメモをそのままアップしてみます.

人によって理想の更新方法ってあると思うんだけど,
私の場合,理想の一つにフットワーク軽く書くってのがあるんだよね.


ポンポン書けるんなら何書いてもいいってわけじゃないんだけど,
何も書かないよりはいいんじゃないかって思う部分はあるのさ.


そう思ってるんだったら,
そういうスタイルで書いたらいいじゃんってのもわかってるんだけど,
読んで欲しい人の気持ちとか考えて,
ついでに自分がその人だったらどう思うか,とか考えたときに,
思いつきでテキトーなことを言ってるblogを,
果たして好きになれるかというと正直微妙な感じなんだよね.


極端な話,昨日言ってたことを
翌日の更新で「やっぱりあれは無しだわ」とか言われたら,
ある意味更新を遅延されることよりも,嫌な印象が残る気がするわけ.


もちろん書き方次第ではあると思う.
「昨日はこう思ったけど,改めて考えてみたら
こんな間違いに気が付いたから,考えを変えた」
・・・とか,経緯をきちんと話せるなら,
そこまで悪い印象を与えないと思うけど,
それって,前日更新しないで
一日おいて落ち着いてからアップすればよかった,ともいえるしね.


そのへんの判断がつかなくてアップしそこねてる文章が
とにかく山のようにあるんだけど,どうしたもんかな.


「くさるほどblogがあるこの時代に
誰もお前のこだわりなんてきにしてねえよ」って言えばそうなんだけど,
1人でも読んでくれる人がいるなら,やっぱりそのへん大事にしたいわけよ.


感想としては・・・
「楽だけど,色々と雑」ってことですね.


後輩が読んだらどんな反応するのでしょうか.

自分の性に合ったサイト運営スタイル

孫ニュースサイトを見ていると,
ときどきうらやましいと思うことの一つに,
記事の書きやすさがあります.


目を引いた内容や,印象に残った出来事について
思ったことを書くというのは,
シンプルながら読む人の関心を引きますし,
引用を前提としているので話題に説得力があります.


考察自体(思ったこと)に説得力を持たせるためには
もちろん文章力が要りますが,
「おもしろかった」「すごかった」だけで終わらせなければ,
それなりに読み物としての体裁を保てるので,
下手な日記を書くより面白い文章が出来上がったりします.


しかし,最も大きな難点として,
孫ニュースサイトはネタの鮮度が命だということです.
そのとき最も話題になっているネタを取り上げないと
読む側の興味関心を引きづらいし,
そのためにはアンテナを高く,多く張らなければなりません.


私はただでさえ更新頻度が低いので,
孫ニュースサイトなんてものをやった日には
更新と更新の間がひらきすぎて,
ニュース紹介の目的を果たしてない,と言われることが
目にみえています.


ニュース集めとマメに更新する労力と,
文章をうまく書く労力を比較した場合,
結局どちらも大変だと思います.
そうそううまい話はないということですね.


最終的にはどっちが自分の性に合っているか,
ということになるんじゃないでしょうか.


ニュースサイトを運営している人は
「巡回ついでに思ったことを書いてるだけだよ」と
簡単に言ってのけたりしますが,
そのへんのニュアンスはうまい文章を書こうとしている人が
そのための努力を苦にしないのと変わらないような気がします.


まあ,さすがに私も
「うまい文章を書くために工夫してるだけだよ」とは
簡単にいえませんがね.

才能の有無は大事ですか

まったくイメージが合わないといわれますが、私は高校生までピアノを習っていました。
しかしながら、ピアノは弾けても音楽の理論はさっぱりだった私が
そのことをきっかけに、大学院で受けてみようと思った音楽関係の講義がありました。



他にもいくつかあった音楽関係の講義が、
いずれも和声(作曲のための知識)を前提としたものだったのに対して、
その講義だけは、それを必要としておらず、
毎回分かりやすい例を挙げて音楽の理論を説明してくれました。



そんな講義の最終回。
最後に先生が取り上げたトピックスはなんと「演歌」でした。
しかも「音楽の理論とまったく関係ない」と前置きしての授業です。
・・・とはいえ、最後の講義ということで、それまで説明してきた理論を使って、
演歌がいかに説明しがたいかを話すというのはある意味
最終講義にふさわしかったのかもしれません。


授業も終盤に近づいた頃、
「よく考えたら、音楽の理論に関係しているじゃないか」
・・・という矛盾に気づいた私が、そのことをたずねると、
先生はこう答えました。

「この授業は、音楽を可能な限り理論的にとらえるというスタンスで
行ってきましたが、世の中の認識はどうでしょうか。
理論よりも、才能や感性が重要だと考えられているのが音楽です。
そして、私がお話してきたような理論をまったく知らずに、
とにかく自分の才能や感性を信じて突き進んできた人が多いのも事実です。
私が今日、講義の中で説明し難いと言った部分のほとんどは、
そういった才能や感性によって、奇跡的に生み出されたものであって、
もともと理論で説明のつく話ではありません。
だから私は、今日の授業の前に、前提として述べたのです。
『音楽の理論とまったく関係ない話をするよ』と」


私は、才能あふれる人間を目の前にしたときに
「ああ、この人くらいの才能が自分にあったらなぁ」
・・・などという想いを抱くことが多いです。
しかし、才能だけで突き進んできた人は、
理論に頼らないがために苦労した部分も多いはずです。
それはそれで大変なことではないでしょうか。


先生は授業の最後にこうまとめました。

「私は、才能や感性にそれほど優れた人間ではなく、彼らのように、
それだけを信じて突き進むこともできないと思いました。


しかし、その代わり・・・・


理論を極めて、彼らに負けないようにやっていかねばならないと考えました。
どんな分野でも、才能のある人と無い人はどこかで分けられると思います。
ですが、才能が無い人にしかできないこともあることを忘れないでください」

つまらないblogが許される人種

散々わたしのblogで書いてきた、つまらないblogの典型は
『”今日は疲れた”しか書かれてないblog』ですが、
そういうblogがたくさん見受けられるのが、いわゆる著名人のblogです。
彼らのblogの内容のほとんどが「○○した!」程度しか書かれていません。
その手のblogは話題になることも多く、他人からすすめられることもよくありますが、
いったい何を楽しめばいいのか分からず、あとで感想を聞かれやしないか、
ビクビクものです。


そういうblogがどうして話題になったりするのでしょうか。


ひとつ言えることは、blog自体が話題というよりも、
書いている本人が話題になっている場合が多いということです。
「blogを書いていて有名になった○○さん」なんて、ほとんど聞いたことがありません。
「有名な○○さんがblogを書いている」というところから話題になるのが
基本的なパターンでしょう。


『”今日は疲れた”しか書かれてないblog』がつまらない理由は、
極端な言い方をするなら
「誰もお前が疲れたことになんて興味ねえよ」という一言に尽きるでしょう。
しかし、著名人の場合は違います。
「普段、どんな生活してるんだろう」という興味関心が集まるため、
「○○した!」というだけでも成立するわけです。


この理屈でいくと、『”今日は疲れた”しか書かれてないblog』の書き方とは、
有名人にしか許されないことであり、
有名人でない者は『”今日は疲れた”しか書かれてないblog』以外の書き方をして、
興味関心を集めねばならないということになります。


そう考えると、面白いblogを書いている人たちは、
そのために色々工夫してるなぁと思えてきます。
もちろん、実際はそういう劣等感からではなくて、
もっとポジティブに「面白いものを書きたい」という想いが原動力だと思いますが。

信者にならない程度の敬意


ここ最近のエントリにyas-toroさんのエントリを引用する機会が多かったので
偏りすぎかなぁ、などと考えてもいたのですが、
yas-toroさん本人がタイムリーな話題をいくつか取り上げておられたので
その記事にトラックバックしつつ、エントリを書いてみます。


■内輪だけで盛り上がる閉ざされた空間(from駄文にゅうす)
<明日は明日の風が吹く>


そもそも、私が冒頭で述べた、「偏りすぎかなぁ」と思った理由を挙げるとすれば、
私の取り扱うトピックスが内輪のことだと思われることを懸念してのことです。
それは別に仲間意識としてどうこうというより、サイトの方向性としての問題でした。
yas-toroさんの<明日は明日の風が吹く>がニュースサイトである以上、
その目的は「ニュースそのものの紹介」であって
yas-toroさんの紹介ではありませんから、
取り扱っているニュース以上にyas-toroさんの存在が前に出てきては、
サイトの方向性を否定しかねないわけです。


ご自身も折にふれて「単に好きなことを書きたいだけだよ」と述べておられますし、
せいぜい「ニュースチョイスのセンスがいいですね」
ぐらいに思われるくらいがちょうどいいのではないかと思うのです。
しかしながら、私のblogでの引用回数が多いという絶対的な事実の前では、
読んだ人が「yas-toro信者かよ」と思われてしまってもしかたないのです。
私がそのへんをどのように考えて書いているかなんてことは、
今回のような機会を設けて説明でもしない限り分かりません。
ゆえに、もっとも無難な方法として、
「ネタの引用先を特定のサイトに偏らないようにする」という発想に行き着くわけです。
そういう点において、yas-toroさんに対してのみ、どうこうということでもありません。


引用先の記事にあった事例は実生活でのことでしたが、私とyas-toroさんの例は、
後述されていた、こちらの関連項目のほうが分かりやすいかもしれません。

はてな側でどういう騒ぎになっていようと気にしない。
被るネタになるかどうかは、自分が判断すれば良いんじゃないかと。
自分でも面白いと思えば被っても構わないし、
つまらないと思うなら、はてな村内で騒がれててもスルーで。
村人じゃなくて旅人のスタンスで。
興味があれば首を突っ込む事だってあるんじゃないかな。


『他の人だって取り上げているかもしれないし、ネタは被って当然、
ただし、それを聞いたのが、たまたまyas-toroさんからだった』
・・・ぐらいの認識を持ってもらえるのが、私の理想といったところでしょうか。


程度の問題ではあるかと思いますが、「yas-toro信者かよ」とまではいかなくても、
「yas-toroって人はいつもいいネタを拾ってくるんだな」くらいには
とって欲しいなぁ、と考えています。


それぐらいは、引用先への敬意だと思うのです。

満腹感に特化した文章はあるか?

リアルの友人に「読み物の満腹感」の話をしたところ、
読み物としてのニュアンスよりも、
食べ物のイメージとしてのニュアンスに関心を持ってくれまして、
なかなか興味深かったので取り上げてみようと思います。


「たとえば、胃の中で膨らむような食材を使うことによって、
満腹感を作り出すようなことが、文章でもできるのか?」


これが、友人の問題提起でした。
そもそも「満腹感」というのは例えとしての表現なので
そこまで厳密に考える必要はないのかもしれませんが、
思い当たることがないわけでもないと思いました。


「胃の中で膨らむような食材」というのは、
いわゆるダイエット食品と呼ばれているもので、
「寒天」とか「こんにゃく」とかが代表的だと思うのですが、
その他に思いつくものを挙げてみても、
それほどたくさん挙げられるものではありません。


当然のことながら、
ダイエット食品と呼ばれない食材のほうが多いわけで、
食材としては、むしろそれらは例外的な食材だといえます。


これをふまえて、改めて最初の問いを考えてみますと・・・、


「胃の中で膨らむような食材を使うことによって、
満腹感を作り出すようなことは文章でもできるだろうが、
それが可能になるのは、例外的なパターンにおいてのみである」


・・・ということになります。
友人にも、同様の答えを告げたところ、
当然友人はそこで『それは例えばどんな文章なのか?』と
食いついてきたので、一緒に色々考えてみたのですが
途中で、それはあまり意味がないことだと思えてきました。


書きたいトピックスを題材にした文章で
「満腹感」を出したいのであって、
限定されたトピックスでのみ
「満腹感」が出せる文章を書けてもしょうが無いのです。


はるさめヌードルとか、こんにゃくラーメンとか、
かなり工夫されたダイエット食品をよく見かけるので、
もし、そういう文章が書けるのなら
アレンジしだいで結構面白いことが出来そうな気はするんですがね.