御曹司


私は自分でも、自我の確立において父親の影響が大きいと思っているのですが、
父の話(説教)の中には、父自身の苦学生時代を語る機会がよくありました。
幼い頃はピンとこないものが多かったのですが、
現在の私は、実際に大学生を経験した後なので、
時代のギャップは考慮せねばならない部分があるものの、
何かの拍子に思い出して、感慨深い気持ちになることがしばしばあります。


先日、とあるきっかけで、
俗に「御曹司」と呼ばれる人間について調べる機会があったのですが、
その過程で私は「御曹司の同級生」について父が話していたことを思い出しました。


当時法学部に在籍していた父は将来設計の上で
選択肢の一つとして司法試験突破を考えていました。
つまるところ、弁護士や検事を視野に入れていたわけですが、
生活費はおろか、学費さえも自らまかなわねばならなかった父は
そのための時間を裂くのもやっとという状況でした。


しかしあるとき、
「御曹司の同級生」から話を聞いた父は愕然としたそうです。
彼は当然ごとく学費と生活費を実家から与えられており、
それどころか入学直後から司法試験の対策勉強を始め、
その一環としてゼミ通い(有料)をしていたと言うのです。


父は絶対的な差を感じたといいます。


・・・私がこの話を聞かされたのは
確か高校に通うか通わないかの頃だったと思います。


苦学生時代を引き合いに出される場合、
「逆境に立ち向かってこそ得るものがある」と、
ハングリー精神のなんたるかをとうとうと語られることが多かっただけに
幼い頃の私としてはウンザリ気味な印象の強かった父の苦労話でしたが、
この頃からはそれまでと異なる理屈の展開になっていった気がします。


私は「ハングリー精神」を持った人間の、
粘り強さや、それを培う上で歩んできた苦難の道のりを
決して否定しませんし、むしろ尊敬すべきことだと考えています。


しかし、何か一つの知識や技能の類を修めんとしたときに、
そういった「ハングリー精神」の獲得と言うのは、
あくまで副産物的なものであって、
単純に、或いは純粋に目的の達成を考えた場合、
金銭的、時間的余裕を持ち合わせている人間の方が、
その水準は高いものになると思います。


例えば「御曹司の同級生」が、
実直な人間で、一途に目標に向かう人間だったとすれば
結果的に、そして無意識のうちに
自分の与えられた環境を生かして
司法試験ぐらいなら突破することでしょう。


もちろん、金銭効率・時間効率で言えば
ありがたみを分かっている人間とそうでない人間には
大きな差が生まれることでしょうが、
「御曹司」だからのうのうと生きているかと言えば、
可能性は高いかもしれませんが、必ずしもそうではありません。


「絶対的な差」というものが発生しても
なんら不思議ではないということになります。


父が「御曹司の同級生」の話をしたとき、やろうと思えばそれまで通り
精神論的な理屈を展開することも可能だったと思います。


それこそ・・・


「金がない人間は、努力でその差を補うしかない」だとか
「時間が足りないのなら、集中して学習の密度をあげなくてはならない」だとか
そういうことで話をまとめてもいいはずなのです。


しかし、父はそうはしませんでした。


父の苦学生時代における基本スタンスは
「何の苦労も知らない連中に負けられるか」
・・・というものだったそうです。


そうして勝ち取った結果として、
今、その子供である私の立場があるわけで、
それを続けている限り、父の存在は絶対的だったと思います。
しかし「御曹司の同級生」の話には、それを崩してしまうものがあるのです。


ただ、私は幼い頃から半ば押し付けられてきた精神論などよりも
はるかに納得してその話を聞いていました。


父がその話をしたときのことをどう思っているのかは
聞いてみないことには分かりませんし、
もしかするとそこまでのことを考えてはいなかったかもしれません。


しかし、ある意味かっこ悪いとも思えるその判断が、
私の中では大変価値あるものとなっています。


「与えられた環境を最大限に生かす」


・・・それはおそらく私にとって、
この先の人生においても重要なテーマでありつづけると思います。