「学校」は「社会」の縮図らしい


私がグループコミュニケーションというものをきちんと認識できたのは
大学に入学してからだったと記憶していますが、
思い返してみるとその素養を培う機会というのは
小学校の頃までさかのぼるような気がします。


小学校高学年のとき、
「自分以外の人に説明するということは、
自分の理解度を確認することにもつながる」
・・・と担任にいわれました。


私がそう言われたのは、
算数の問題を友達に教えていたときだったため、
イムリーな説得力とともに印象に残りました。


今にしてみると、
小学生が意味を理解するには少し難しい内容のような気もしますし、
当時の私が本当に理解していたかは怪しいものの、
少なくとも私はそのたぐいの言葉に敏感だった気はします。


さらにさかのぼると、
入学して間もない頃、最初の担任になった教師に
こんなことをいわれたことがあります。


「好奇心や探究心が旺盛なのはいいことだけど、
授業のとき、思いついたことをすぐ口にしてしまうと、
他の子が発言する機会をなくしてしまうの。ほどほどにね」


小学校低学年に分をわきまえろといってるようなもんですが
とりあえず疑問に思ったことは授業中に聞かず、
後で聞きにいく癖がつき、
やがて授業中に聞いてもいい質問と、
個人的に聞きにいったほうがいい質問の区別ができるようになりました。


直感的に
「ここは質問に対して先生がすぐ答えてくれるな」と感じ取って発言し、
「いい質問だね」
・・・とか言われてニヤリとしていた私は
小学生らしい無邪気さを失っていた気がします。
実際、見透かしているような態度が気に食わないとか
先読みしすぎてるとか言われることも多々ありました。


私は教育の専門家でもなんでもないので
あの担任先生の指導方法がいいことだったのかどうかはわかりません。
ただ、少なくとも年をとるにつれてそういうセンスが
役立つ機会は増えていったので一応感謝すべきかもしれません。